昭和51年04月09日 朝の御理解
御理解 第53節
「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」
甘木の安武先生の御晩年のころの、あるお正月に、今年は愈々不平不足を思わんで済む修行に取り組みたいと言う様な、まぁ年頭挨拶があったと言う事を、まっ聞いております。不平不足を言わんと言う事は、まっここで不平を言うてはならん、不足を言うてはならんとこう、まっ御神号を唱えながらその不平不足を言わんで済む、いうなら辛抱と言うか、ね、そう言う修行を、まっさせて頂くわけですけれども、思わんで済むと言う事はこれは大変な事なんだ、ね。
心に不平不足を思うておっても、それを口に出さんと言う事はまあ辛抱がでける、修行がでけるとしても思わんで済むと言う事は、まあ大変な事だと思うんですけれども不平不足を言う必要がない、いや却ってお礼を申し上げなければならんと言う心が生まれてくる、そういう信心が分かると言う事は、私この五十三節で言われる所の本当の信者とこう、仰せられるその本当の信者にならなければ出来ない事だと思います。ね、
安武先生のああいう大徳を受けられた方ですらも、もうそれが御晩年の頃にそれを言っておられるというのですから、ね、そりゃならそういう思わんで済む修行をしたいと、言っておられるのですから、そりゃ矢張り思われたかもしれません。そしてこんな事じゃいけんなと又、反省なさったかも分かりません。けれども、成程信心をしておれば知ったおかげより知らぬおかげが多い、目に見えるおかげより目に見えぬおかげのほうが多いと、言う事はです。
まあ私は合楽でご信心を頂いておる方達であるならばです、そうですねもうやっぱり十年の信心でも続いておるならば、先ずはここん所は十分、分かっておいでだろうと思うんです。はあほんとにあん時には困った事だとか、ね、まあ腹の立つ事だとか色々思うて来たけれども、実際はあれがおかげであったなあ、と。私はそう言う、あれもおかげであった、これもおかげであったと、分かる様に成ると本当の信者じゃというが、それが成程金光大神の信心を頂いておる。
いうなら金光大神の信心の世界に住んでおる者だというふうに申しておりますが、確かにそうです。どんなに悲しい事であっても、どんな苦しい事であっても、後で考えてみて、信心をしとれば、あれがおかげであったと言う事がはっきり分かる、そしてそれにその事に対して、一時でも不平を言うたり、不足を思うたりした事が相済まん事であったとおわびすら出来るほどしに、おかげである事が、分かて来るのでございますから、ね。もうその時点時点においてです。
不平を言わず思わず、私は出けれる修行が、矢張りなされなければいけないと思います。確かに言わんで済むじゃなくて、ね、思わんで済む信心修行に取り組まなきゃいけない。もうどういう些細な事でありましてもね、それは困ったとかと言った様な事でない、後から考えるとこの事も必ずおかげになる、事は信じておるけれども思うけれども、矢張りそれが不平不足であり、いわば不平らしい顔をする。不足らしい態度をとる。ほんとに繰り返し繰り返し間違いのない神様の働きをね。
目の当たりに見たり聞いたり、事実それを体験しておかなければ、でける事でない事が分かります。けれどもこれは大変有り難い楽しい修行だと思うです。だからそこの所を神様のお働きの中に、決して間違いがあるはずはない、おかげを下さろうとする働きだけしかないと言う事を、まずいうならば信じてかからせて頂かなければなりません。そこには、矢張り私共は日々です、間違いのない働きの中に。
いうならば素晴らしいタイミングの中に一日がある様なおかげを頂いていきませんと、そう言うおかげの実感と言う事になっていきません。その日々のタイミングを崩しておっては確かに、必ず不平でしょうし不足でしょうしそれは困った事でしょう。そう言うのが実感、日頃のタイミングを崩しておって、いやこれもおかげと言うておるだけでは、それはだから、ほんなもんじゃ無いと言う事になります。
今度の御本部参拝で、丁度あちらに永井肝四郎先生ご夫妻が、私を訪ねて古川の家に訪ねて来て下さって、丁度二時間御話を聞かせて頂いたり、さして頂いたりいわゆる対談をさせて頂いたんですけれども、もうほんとに接して色々お話しを頂いて、おりますとほんとに素晴らしい先生だなと、まあ思わせて頂きましたが、丁度その半ばに池田さんがここから修行にいっとります、ある人を連れて参りました。というのは倉敷から、このごろ夫婦で親子三人で参って見えました。
その後又一回、二回ここにお参りされて、そいでまあ大変な難儀な問題を抱えておられます方ですから、まぁ色々お願いがあって電話でいいです、ですからお礼参拝は御本部のほうへ、すぐそこですからなさいというて、おりましたからそのいろんな問題を電話でお届けなさっておりました。丁度私どもが御本部に立たせて頂いた日に、こちらへ電話が掛って来たいまこうやって、御本部のほうへ御本部参拝しておられますからと言う事だったそうですから、なら今日が丁度御大祭で何時には済むのだから。
まだ御霊地におられるので、ならあちらにお尋ねしますと言う事だったそうです。はら沢山なお参りの中に、まぁマイクかなんかで呼び出しでもされる積りだったんでしょう。それであのあちらへ、斎場に見えられた所がもうお祭りが済んでおる、丁度そこに修行生の方がおられたから、その合楽の先生はどこにお宿を取っておられるだろうか、と言うて聞いたらそれがなんとあの、池田さんだったというわけなんです。
それは私の方の親先生ですよと、こうしてじゃご案内しましょうというて、丁度対談中にあの連れて参りました。したら私が先生にあのこういう質問を受けて、こういうご返事、お話をしておる所でした。毎朝の合楽でのご理解は、先生が必ず神様にお知らせを頂かれるとか、又は前夜御神夢を頂かれたとか言う事が芯になり、そしてあの教典を開かれて、御理解になると言う事だそうですが。
それはどう言う事でしょうかと言う質問であった。私はもうだから私の見る夢はもう全部御神夢だと自分でこう、決めておりますから、御神夢頂いた時には、必ずあのあくる日のそれが御理解にでてまいります。ほいで教典もこの教典を私が押し頂いて、まあ言うならば神ながらに開かせて頂く、開かせて頂いた所に、私の目の動く所、私はこれは自分であの、最近思うことですけれども、このごろ私が思うたことは、神様が思いよんなさる事だと言った様な事を実感に致します。
私が目を留めた所は、もう神様ん目がそこに止まったんだと言う事を感じます。だからまぁなんていうて良いか、今迄かってまあ、あのお徳を受けられた先生方の中にも、そのいろんなお知らせ頂かれると言う、色んな事は大変色々聞いておりますけれども、あの目でそれを追うて行く様な、と言う様な事は私も聞いた事がない、だからまあいうなら目の力を頂くというんですか、まあもうね、言うならまあ眼力とでもいうのでしょうか、とい言う話をしておりました。
丁度古川のあのお座敷の隅に障子一間ありましょう、あの六枚屏風ですかね屏風が、こう二つに折って、この部屋の隅のほうへ立ててあります。ああ見事ななんか漢文のような字が難しい字がいっぱい書いてあります。私はその池田さんが連れてきました、その倉敷の御信者さんのお届けを聞かせて頂いたら、大変複雑な事で意味も分かりませんし、そん時に永井先生ご夫婦が、何か大変込み入ったお届けのようですから、私共はしばらくご無礼致しましょうかと立ちかかられました。
いいえそんな事はいりません、何故かと言うと例えば人に聞いて聴かれてならないような、あのお届けならばこういう、なら対談中に来るはずありません。よし又それが人に聞かれて恥ずかしい、と言った様な話であってもです、それを押し隠すような心では、次のおかげになりません。矢張りその勇気が要ります。お届けにはこんな事を人に聞かれたら、そして愈々ギリギリです、これは人に聞かせてはならんと言う、お届けであるならば、絶対私対この人と言うときでしか、そう言う働きをあるはずありません。
だから先生お立ちにならんでもいいですよ、というてまぁ十分位掛ったでしょうか、色々なな話を聞いてお届けをさして、それで私はとにかくその、ま大変な難しい問題ですけれども、その答えはそのまあ神様のお知らせいただく事を伝える以外にありませんから、ちょっとその後ろのほうへ立ててありますその、屏風のその字を見せて頂いた、沢山の字の中におうしん、信心に負う事大だと言った様に申しますね、負うという字それと信心の信ですの所を頂いたんです。
それで私は今先生方ご夫婦に、その目の目によって、目でその沢山のかつじの中から、これとこれと頂いてそれが御理解になるんだという話をしておる時ですから、今頂いたのがそうですがこれは負う信と言う、ここんところを頂くからね、信心は神様にもう任せておけば、又、ほんとの事言うたら、私が神さまを信じておるという意味なんですね。私が神様を信じておる私がお取り次をするのだから、ね、私の信心に負う事ですから、おかげになりますよと。
おかげになりますよと言うても、その具体的にどう言うふうになるかと言う事は、私には分からんけれども、おかげになりますよというて、まああのだから要領を得ない様な感じでした。先方のけどももうおかげになるのですよ、というてまあ帰られましたが、その事はちょうど夕方又あの古川のほうへ電話がかかって参りまして、もう大変不思議な事が起って、こういうおかげにまあ成り掛っております、お礼を申し上げて下さいというて電話が掛って来た。
昨日こちらへ帰らせて頂ましたら、あちらから電話が掛って、もう大変な広大なおかげを頂いたから、というて御礼の電話でございましたが、どういうどうして私はそういうふうに確信を持って、ならあの色々な、家庭的な事情やら、金銭の事やらのいろんなお繰り合わせの事やらを願う、それをそばに居られた先生方ご夫婦が、ね、ちょっとご遠慮申しましょうかと言われるけれども、それはいいんですよ。
ここで一緒に私がお取次ぎさせて頂いておる様子を、実は見て頂いとって、聞いて頂いとっていいんですよ、今お話をしておった、あの目に頂くお知らせと言った様なのは、あのこう言う事ですよ、と目の当たりに見たり聞いたりして頂けると言う事、それを非常に感動してご夫婦が頂かれます。ね、例えば私がそれを何故そういう確信を持っていえるかと言うと例えば、電話を掛けた、御本部に行かれておった、そんなら御本部で先生に、電話に出る事も実際にお会いでけるとこう、向こうは思われた。
御本部にこられた尋ねられた。それがしかも合楽の修行生であった。その修行生が導いてきたのですから、ここに成程、永井先生と対談が対談中ではあるけれども、ちょっと待って下さいと言う事もいらなければです、これは聞かれてはいけないまずい話だと言う事が、あろうはずがない。もしあったにしても、そこを勇気を持って、その人がお取り次を願わなければ、おかげにならんと言うふうに確信して行けれる。
と言う事を私はねそう言うタイミングが、素晴らしくでてくる日々でなからなければです、今日のご理解はあれもおかげであった、これもおかげであったと分かっておるだけではね、其の場で不平がでる其の場で不足が出ると、言う事を聞いて頂きたかったから、そのお話しをね御本部のお話しを聞いて頂いたわけです。又そう言う意味での事は、皆さんも体験なさって居られるが、私の周囲におられる限り、もうそう言う素晴らしいタイミングがずっとこう、生まれてくるでしょう。
だからそう言うタイミングの素晴らしい働きを、受けながらの事であるから、それが普通で言うなら、腹の立つような事であったり、イライラする様な事であったりしてもです、それはそう言う素晴らしいタイミングの中に生まれてくるのであるから、これもおかげであると実感でける、そこに不足を言わんですむ不安、不足、不平を言う必要がなくなってくる、むしろその素晴らしいタイミングの、おかげにですお礼を申し上げるより他にないと言う様な、所にまでなってくるんです。
ほんとに私はそう思わせて頂いたんですけれども、実際私がお話しをして居るそのお話しの裏付けを神様は、そう言う素晴らしいえんしゅつの中に、その働きを見せて下さる、ですからおかげになると私もかくしんでける。もちろんそれがならおかげになっておると言う事と同時にです、そう言うおかげの頂けれる信心を、頂くためにいつも信心のいうなら、真を表していくという行き方を身につけて行く信心、そして素晴らしいタイミングを産みなして行く、ね。
私はほんとにその、最近教団で言われる、頂く信心から産みなす信心、意味がどうしても分かりません。御本部で言っておられる、私は頂く信心から、産みなす信心、これが今度の新運動の、まぁ、軸になるような、読みますけれども、ね、だから私は生みなしていくと言う様な事は、今日聞いて頂く、そう言う素晴らしいタイミングを産みなしていくと言う事だというふうに思うのです。
これは産み出して行くのです。神様のほうから(与えて?)下さるのじゃないです。いうならば、神様と私共とのいうなら、心の交流と言うものがあって始めて、産みなされるのであり、タイミングが生まれてくるんです。ね、そこに神様を言うならば働きを、神様の働きを信じずには居られない。それは例えば困った事の様であっても、これは目に見えない神様の働きだな、おかげだな分からしてもらうから、不平不足も言う事はいらん、だけではない、その事に対してお礼の言えれるようなおかげも頂けてくる。
私が言って居る様な意味ではないと思うです、御本部で言っておられる産みなして行く、頂く信心から産みなす信心ていうのは、そうではないと思うけれども、私は産みなしていくと言う事は、日々私はそう言う神様の働きをです、素晴らしいタイミングを産みなしていけるだけの信心を、私は言うのだというふうに思うです。そこに至って始めて一つ本当の信者の姿、甘木の親先生じゃないけれども、不平不足を言わんではなくて、思わんで済む、御信心もうその辺のとこを十分。
先生は体験の上にも積んだ上にも積んで、体験しておられますから、不平ども不足ども言うたり思うたりもすることはご無礼である事を、ご承知になって居られる。それでも矢張り生身を持っておる人間ですから、ほっと矢張り自分の思うように成らなかったり、都合の悪い事であったりしたら、そこに不平不足が飛び出そうとする、それを抑えるのではない、それを思わんで済む、いわば修行を御晩年において、なさっておられたと言う事をです、私はこの五十三節から今日聞いて頂きました。
この五十三節の所はすっきりと分かってくるなら、不平もなからなからなければ、不足もいやない、あるものはただ感謝の心だけしかない。ね、そこまで至った時に本当の意味においての金光大神の世界に、安住させて頂いておると言う事が言えると思うですね。どうぞ不平不足をまず言わんで済む、修行に取り組まなければいけません。何故って合楽で信心を頂いとるなら、不平不足をこれは言うてはならない事だと言う事を、知っておられる聞いておられる、皆さんの体験から言うてもそこん所を体験しておられるのですから
( 途中切れ )